事例紹介(歴史編)九州が日本のエポックをつくってきた
2013年9月30日発行の51号より
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古代から大陸との玄関口だった福岡は、いま東京までと上海までの距離が同じ900キロという地の利で、発展し続けるアジアとの「文化交流拠点都市」の形成に努めてやまない。有史以来2000年余、それぞれのエポック毎の九州、福岡の成長を振り返った。
「昔から九州は日本文化の日下開山なんだ」
〈…縮屋(ちぢみや)新助じゃねえが江戸っ子がなんでえ。徳川三百年の御治世がドウしたと言うんだ。憚(はばか)んながら博多の港は、世界中で一番古いんだぞ。埃及(エジプト)の歴山港(アレキサンドリア)よりもズット古いんだ。神世の昔××××様お声がかりの港なんだから、いつから始まったか解かれねえくれえだ。ツイこの頃まで生きていた太田道灌のお声がかりなんてシミッタレた町たあ段式が違うんだ。
勿体(もったい)なくも日本文化のイロハのイの字は、九州から初まったんだ。アイヌやコロボックルの昔から九州は日本文化の日下開山(ひのしたかいざん)なんだ。八幡様や太閤様の朝鮮征伐、唐、天竺の交通のカナメ処となって、外国をビリビリさせた名所旧跡は、みな博多を中心にして取囲んでいるのだ。…(略)…毛唐に頭ア下げっ放しの名所旧跡ばっかりに取巻かれている東京なんかザマア見やがれだ〉
これは博多が生んだ昭和初期の異色作家・夢野久作の近世快人伝「篠崎仁三郎」の書き出しの部分。アンチ東京の郷土愛から生じたお国自慢もここまで無邪気さに徹すれば、痛快きわまりない。
わが国最古の国際港だった博多の入り海
博多の港がアレキサンドリア港より歴史が古いかどうかはさておき、博多港の起源が古代までさかのぼることは紛れもない事実だ。
志賀島での金印発見を記念した金印公園(画像提供:福岡市)
紀元1世紀、北部九州沿岸の古代諸国家が、朝鮮半島の楽浪郡を通じて中国と交流していたことは、中国の「漢書地理誌」に記載され、「後漢書」には博多の入り海一帯を勢力範囲とする「奴」の国王が紀元57年に中国に使節を派遣し、後漢の光武帝から「漢委奴国王」の金印を受けたと記されている。港の位置や規模は不透明だが、博多の入り海がわが国の最も古い国際港であり、3世紀後半の邪馬台国以前から中国と朝貢貿易をして、その庇護を受け、大陸文化の導入役を果たしていた。
国史に初めて博多を表す「那の津」の名称が登場するのは「日本書紀」で536年に「官家(大宰府の前身)を那の津の口に造る」と記されている。当時、大和朝廷は朝鮮半島政策に力をそそいでいたので、朝鮮半島に向かう船は、ここに結集し賑わいを見せていた。その後、大宰府の発展に伴って遣隋使・遣唐使や留学生、留学僧あるいは商人を乗せた出船入船で賑わった。
大陸からの侵攻を恐れ一転して国防都市へ
6、7世紀の博多港は貿易港であると同時に、半島出兵のための軍港でもあった。
663年、同盟国百済を守るため博多港を出港した2万5千の兵を乗せた大船団は、朝鮮錦江の白村江で唐・新羅の連合艦隊に襲われ大敗を喫した。逃げ帰った大和朝廷は、唐、新羅軍の来寇にそなえて宮府(大宰府の前身)を那の津から内陸部まで後退させ、筑紫野に大規模な水城を築いた。
それ以前の宮府は大陸との外交と政治の要衝だったが、水城以後は防衛のためのものになった。対馬、壱岐、能古島に防人を配置した。防人は甲斐、相模、常陸などの東国から徴兵された農民で、食料・武器は自弁で楽な兵役ではなかった。
8世紀末編纂の「万葉集」には防人の歌が90余首あるが、そのほとんどが防人と故郷の家族がお互いを想いやる歌。今なら庶民の反戦歌だが、天皇の歌と同じく扱っている万葉集は、日本文化の水源の豊かさの証明だろう。
鴻臚館は世界を知る唯一のレーダー基地
舞鶴公園内にある鴻臚館跡展示館の内部(画像提供:福岡市)
結局7世紀後半、唐・新羅連合軍の日本侵攻は空騒ぎに終わり、政府は国防体制から外交的な政策に移行し、政治、経済を重点に唐や新羅に平和使節を積極的に送り、688年には現在の福岡城跡に唐や新羅の使節を接待する迎賓館である筑紫館(=鴻臚館の前身)を設営した。白村江の大敗後は国際情勢に神経質になり、特に当時の世界国家であった唐の情報は、何よりも貴重で、筑紫館はわが国の唯一のレーダー基地だった。
838年に最後の遣唐使を受け入れて以降は、鴻臚館はもっぱら唐、宋、新羅の商人を受け入れる官営貿易館の役目を果たした。鴻臚館の活動は11世紀末まで続くので、約400年以上、わが国の情報基地、貿易公社の大役を務めたことになる。
鴻臚館時代の貿易は国家管理だったが、貿易の規模が大きくなるに従って、官僚機構では次第に融通がきかなくなり、内外の商人たちがそれに対応して博多の町づくりに関与し、やがては中世の一大国際貿易都市を形成していくことになる。
中世の博多は海外雄飛の栄華の時代
生の松原に残る元寇防塁跡(画像提供:福岡市)
12世紀末の博多はわが国の精神文化の基調となった禅宗の上陸地・開花地になった。宋から帰国した栄西は博多に聖福寺を開山し、持ち帰った茶の種を境内に植えて育成した。
13世紀の博多には宋の貿易商人が、居留地「大唐街」に住み着き国際文化都市を形成した。15世紀には室町幕府の勘合貿易(対明貿易)の拠点として栄え、幕府の衰亡後は博多商人は大内氏と結び、細川氏と結んだ堺商人たちと対明貿易の実権を争った。
16世紀後半になると南蛮人(スペイン・ポルトガル人)との交易が活況を呈し、堺とならんで商人たちによる自治都市としての栄華を謳歌した。博多を直轄地とした豊臣政権下では、嶋井宗室、神屋宗湛などの豪商たちが育ち近代資本主義成立の兆しが見られたが、次の徳川政権になり事態は一変した。
1633年、江戸幕府の鎖国令が発布され、博多商人の海外雄飛の夢は断たれ、博多は一地方都市として長い低迷の時代に入っていった。
鎖国時代も海外との窓口だった2都市
鎖国時代も江戸幕府は長崎を直轄地(天領)にして、オランダと中国に限られるが、唯一の海外との交易窓口とした。交易は幕府の管理下で行われたが、長崎を経由して入ってくる貴重なモノ、知識、情報は、蘭学者たちが消化・蓄積し、わが国が19世紀末から西欧式の近代化をスタートさせる際、大きな力となった。
また江戸期、幕府黙認で続けられた鹿児島(薩摩藩)の琉球貿易も、明治維新の陰の力となった。鹿児島に「琉球館」が建てられ、琉球貿易は薩摩〜琉球〜中国の一種の三角貿易で、薩摩藩、薩摩商人はかなりの財を蓄えた。
1867年のパリ万国博覧会には世界45カ国が参加したが、日本からは江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩の「3カ国」が参加した。薩摩藩の参加は琉球貿易でつけた実力、佐賀藩の場合は長崎警備で得た技術力があったからとされる。
明治期は横一線だった福岡、長崎、熊本
明治期になり1889年、鹿児島、長崎、福岡、熊本の九州の各県庁所在地が一斉に市制を施行するが、各市の人口はいずれも5万人台と、ほぼ横一線だった。
強いていうなら、九州の中央に位置する熊本が1886年に熊本逓信管理局が設置されたのをはじめ第五高等中学校(後の第五高等学校)、陸軍第六師団など国の出先機関が続々と設置され、機能的には九州の首都の様相を呈していた。
1891年には熊本市に九州初の電灯会社が設立されるなど、近代化も一番早かった。ちなみに福岡市に電灯会社ができたのは、その6年後のことだった。
福岡市が九州のライバル都市にやや差をつけるのは、1903年に熊本、長崎との激しい誘致合戦の末、京都帝大福岡医科大学を誘致してから。同大学はやがて1911年に工学部を新設して九州帝国大学に昇格、福岡市は西日本の産業、文化の拠点都市を目指していく。
アジアの文化交流拠点都市をめざして
1989年に開催されたアジア太平洋博覧会(画像提供:福岡市)
1920年の第1回国勢調査の九州の人口ランキングは、(1)長崎市(17万6千)(2)鹿児島市(10万3千)(3)八幡市(10万)(4)福岡市(9万5千)(5)熊本市(7万)。長崎市の人口急増は日清・日露戦争後、大陸への国際航路が活気づいたためだ。
その後、八幡市が福岡市を抜きナンバー3になったのは1901年に官営八幡製鉄所が完成を機に、北九州が日本経済を支える重工業地帯として活況を呈するようになったためだ。この隣接する工業地帯と連携するようにして、福岡市は商業や文化など中枢管理機能に特化した都市づくりに専念するようになる。
第2次世界大戦後の混乱が一段落した1955年の国勢調査によるランキングは、(1)福岡市(54万4千)(2)熊本市(33万2千)(3)長崎市(30万3千)(4)八幡市(28万6千)(5)鹿児島市(27万4千)と、福岡市が九州の中枢管理都市としての座を不動のものとする。
人口150万人突破の福岡市は今後も人口増を見込む(画像提供:福岡市)
一方、八幡市などの北九州各市も戦後の製鉄、石炭産業を重視した国策のもとで発展、1963年には5市合併による九州初の100万都市「北九州市」が誕生した。福岡市の都市機能も拡大を続け、1975年の国勢調査では人口100万の大台に達した。
1989年に「アジア太平洋博覧会」を開催して「アジアの交流拠点都市」を標榜する福岡市は今年5月、推計人口が150万の大台に達し、さらに毎年1万3千人のペースで増え続けている。(渋田 哲也)
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※当ページの内容は、2013年9月30日発行の51号に掲載されたものです。