博多港110周年、北九州港120周年と臨海都市・福岡、北九州
2009年7月31日発行の26号より
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今年、開港120周年を迎えた北九州港、開港110業港湾、博多は生活・商業港湾と、両港とも沿岸を埋め立てることで人工的な良港をつくり上げ、両都市の繁栄を築いてきた。両港の歴史を振り返ることで、今後の臨界都市のあり方を考えてみよう。
900年近くの歴史を持つ博多湾の埋立事業
北九州港と博多港の歴史は、そのまま近代日本の富国強兵、殖産興業、さらに戦後の復興期、高度成長期の歴史でもある。また、必ずしも良港としての地形的条件を満たしていなかった両港の歴史は、そのまま埋め立て事業の歴史でもあった。12世紀半ばに平清盛が博多湾沿岸を埋め立てて日本初の人工港「袖の湊」を建設して以来、900年近くの歴史を持つ博多。120年前に一寒村の埋立地からスタートし、九州を代表する国際港に発展した北九州港。極端な言い方をすれば、両港とも沿岸の海面を埋め立てることで、都市の経済を支えてきた。従来の埋め立てによる「まちづくり」は、環境問題も含めて限界にあるとされる現在、これからの港湾地区の再開発のあり方が将来の両都市の命運を左右するといっていいだろう。
日清戦争を機に大拠点になった門司港
1889(明治22)年に開港した門司港は、それまでは塩田があるだけの一寒村にすぎなかった。「下関をさしおいて門司築港などとんでもない」という下関側の反対もあり、当初は明治政府も乗り気でなかったが、地元の請願を受けた中央財界の大物・渋沢栄一などが出資して「これより生じる利潤による資金の償却と将来の維持の方法とする」方針で「門司築港会社」を設立。当時としては大規模の37ヘクタールの埋立地に筑豊の石炭の積み出し港としてスタートし、やがて北九州の産業の窓口になった。現在の門司区内の本町、桟橋通り、港町、西海岸通り一帯は、このときの埋め立てでできた。
門司港は1894年、日清戦争が勃発すると石炭だけでなく、軍事輸送の拠点となり、日露戦争後には、英国のロンドン・タイムズ紙上で「日本と韓国並びに満州との通商の増加は、門司港の発展を促し、長崎、下関の貿易を萎縮した」とまで評価される国際港になった。門司築港会社は1899年、築港工事完成と同時に解散するが、安川敬一郎、貝島太助、麻生太吉ら地元の実業家が企業誘致を図り、私財を投じて港湾都市門司の建設キャンペーンをするなど、発展に尽くした。
門司港は1919(大正8)年、台湾・高雄航路が開設され、以後、欧州航路、上海航路などが次々に開設されていった。
北九州コンビナートを形成した若松港
門司港に一歩遅れて若松港がスタートする。1890年、若松港を石炭積み出し港を築営することを目的として、「若松築港会社」(現若築建設)が設立され、築港を開始。発起人は麻生太吉、安川敬一郎ら地元炭鉱業者などの81人。それまでの若松港は、石炭積み出し港といってもアシの茂みと岩礁と砂洲の海で、航路の水深は1メートル半しかなかった。
築港会社は途中、資金難などで計画が狂い、解散寸前にまで追い込まれる。だが1897年には、官営八幡製鉄の建設が始まり、洞海湾を囲む若松、戸畑、八幡は、日本の工業地帯として大きく動き出す。三井、三菱など中央財界も出資し、政府も「この事業は政府の製鉄所に関連した事業」と見なし国庫補助を出すことになる。1900年には製鉄、九州鉄道、若松築港会社が3社協約で工事を進め、1904年には、若松港が石炭、鉄材、鋼材、鉄鉱石の「特別輸出入港」に指定され、石炭―製鉄―港を中心とした北九州コンビナートが形成されていった。
20世紀に入ってから若松の海岸線は港湾機能の向上を図るために継続的に埋立事業が進められ、新たに整備された海岸通りには、港湾施設や古河鉱業、三井鉱山、麻生商会などの西洋風建築物が並ぶ景観が形成された。当時は上海の「バンド」(西洋風建物が並ぶ海岸通り)と比較される景観の臨海都市だった。
一地方港湾としてスタートした博多港
1899(明治32)年に開港した博多港は、貿易港に指定されたといっても一地方の漁港に毛が生えた程度の交易港に過ぎなかった。水深が3メートルと浅い上に、まだ本格的なふ頭がなく船溜まりの木造桟橋のみに頼るため、大型船は沖に停泊し、はしけなどの小船で積み降ろしを余儀なくされた。このため大型船に対応できる施設を持つ門司港や長崎港に、大きく水を開けられてのスタートだった。
1907年、明治政府が門司港を横浜、神戸、敦賀の4港と並び第1種重要港湾(国が整備・経営し、地方公共団体が共助)に選定し、長崎港や鹿児島港など10港が第2種重要港湾(地方公共団体が経営、国が補助)に選定されても、船舶の大型化に対応できる施設がない博多港は度外視された。市議会、行政、財界が一体となっての請願も功を奏さず、当時の枢密院議長・伊藤博文から「タライのようにかわいらしい港」とからかわれる始末だった。このように良港の条件を満たさず、水深3メートルというハンディをもつ博多港は、国に頼らず自助努力の道を探るしかなかった。
民間の博多港湾整備事業も力及ばず
16世紀に「南蛮貿易」の代表的貿易港として栄えた博多は、堺とならんで日本を代表する、西欧人も認める博多商人による自治都市であった(ルイス・フロイス「日本史」)。ところが江戸幕府の200年にわたる鎖国政策で、かつての博多商人の民間活力は眠ったままだったが、開港に伴い再び頭をもたげてきた。
1899年の開港と同時に、地元経済人の手で「博多築港株式会社」を設立、市の補助金も得て翌年から築港事業に着手したが、資金不足、難工事の連続などで途中で挫折。1916年には新たに「博多湾築港株式会社」を設立し、ふ頭建設などの整備事業に着手するが、計画のスケールが大規模過ぎたため全工程の約3分の1が進んだ段階で資金が尽きて、第1次世界大戦後の不況もあり実現できなかった。福岡市出身で政界の黒幕的存在だった杉山茂丸が、米国のアジア・デベロップメント会社から外資の導入を図るが失敗に終わった。
杉丸らの大築港構想は、筑豊と大牟田の石炭を鉄道(現在のJR篠栗線とJR鹿児島線)で博多港まで運び、さらに博多湾鉄道を使い西戸崎に新設する一大ふ頭群から積み出すという、門司、若松両港を凌駕する気宇壮大なものだった。
埋立地がコンベンションゾーンに変身
博多湾全景(福岡市提供)
博多港の停滞をよそに、北九州の築港・埋め立てブームは昭和初期まで続く。しかし埋立地を港湾施設や工業用地以外に利用するという発想はなかった。
1931(昭和6)年、小倉築港(現小倉興産)が浅野小倉製鋼所(現住友金属工業)から埋立免許権を譲り受け、37ヘクタールの埋め立てを開始、1937年に完成したが日本が日中戦争、太平洋戦争に突入したため有効的な土地利用にはならなかった。戦後、一部が野球場などに利用されていたが、山陽新幹線開通後の1977年に西日本総合展示場が開設されてから、北九州国際会議場、ホテル、各種商業施設、アジア太平洋インポートマートなどが次々に開設され、現在は北九州市のコンベンションゾーンを形成している。かつての工業用地が40年後に変身したのは、臨海都市の発展が港湾機能や物流施設の強化だけではないという時代の流れを感じさせる。
民間活力で発展した福岡の港湾機能
開港当時の博多港
「門司に追いつけ追い越せ」と博多港が再び本格的な築港事業に向かって動きだしたのは、高度成長が始まった1960年代に入ってからだ。財界出身だった当時の奥村茂敏市長は61年、福岡市で初の第3セクター「博多港開発株式会社」を設立し、市長退任後、社長に就任した。米国のサンフランシスコなどを視察し、当地の港湾施設整備のほとんどを民間会社が行っているのがヒントになった。当時の福岡の都市力が脆弱で、行政だけでは港の整備は困難とみたからだ。当時、公社方式による港湾整備の前例はあったが、事業の財源を予算に頼らないで、すべて銀行融資で賄う株式会社方式は全国的にも先駆けとなった。
博多港開発が最初に手がけたのは須崎浜地区の埋め立て事業で、須崎ふ頭を造成し国内外からから小麦、大豆などの穀物を受け入れる機能を整えた。このため筑後地方にあった製粉工場なども須崎地区に移動してきて、同地区は食糧コンビナートを形成した。また須崎ふ頭は都市づくりに欠かせない鋼材やセメント、砂などの荷揚げ場所としても機能した。63年からは現在、石油タンク基地になっている西公園下の荒津地区を整備し、福岡都市圏へのエネルギー供給をスムーズにした。このように生活港湾としての機能を強化し福岡の都市力は次第に高まっていった。
工業港と商業港との違いは何か
1963年に5市合併により北九州市が誕生すると、外国貿易の門司港、国内流通の小倉港、工業港の洞海港(若松港)を総称して「北九州港」と名付け、それぞれの特色を活かして発展していく。1970年代後半からはコンテナターミナルなどの外貿ふ頭の整備、新門司地区や響灘地区の埋め立てなど西日本一の国際港湾としての整備を進めていった。
一方、須崎ふ頭の整備を終えた博多港は、1973年に博多港最大のふ頭である箱崎ふ頭を竣工。さらに高度化倉庫、国際ターミナル、大型展示場が立地する中央ふ頭の整備や港東部のコンテナターミナル施設の整備を進めアジアへ向けた物流拠点の機能を高めていく。
しかし、北九州港と博多港の大きな違いは、北九州港が工業港の割合が大きいことに対し、博多港が商業港、生活港であるという点だ。北九州港は地形的に港湾の水深が深い半面、海辺は断崖絶壁が多く、埋立地はほとんど工業用地として利用され、住居は内陸部に集中し、海辺に住むという発想に乏しい。
一方、博多湾は遠浅で島々や海辺の景観も良く、海水浴場や海浜公園などのレジャー施設も多いため、海辺に住むという意識が強い。だから当然、臨海都市づくりの理念も戦略も違ったものになってくる。
港湾開発の集大成がアイランドシティ
福岡市の港湾開発の特色は港湾整備だけでなく、埋め立てによる住宅用地の造成に力を入れたことである。1960年代後半から、福浜地区、姪浜、名島地区などで住宅地開発を手がけていった。1980年代に米国の港湾再開発の成功例となった「ウォーターフロント」の手法が導入されると、いち早く早良区と中央区にまたがる埋立地「シーサイドももち」を開発。今では福岡タワー、福岡市総合図書館、福岡市博物館、テレビ局、IT関連企業、IT研究機関、高層オフィスビル、マンション、野球ドーム、ホテル、総合病院などが立ち並び、福岡市を代表するランドマークとなっている。その西の隣接埋立地は大規模住宅地「西福岡マリナタウン」や複合商業施設、ヨットハーバーなどのレジャー施設が立地するリゾートゾーンで、人々が快適に住むための臨海都市を形成している。
福岡市はこれまで1500ヘクタールの海面を埋め立て、港湾施設、商業施設、公共施設、住宅用地を整備してきた。その集大成が人工の島「アイランドシティ」(全体面積401ヘクタール)といっていいだろう。1994年から進められている国、市港湾局、博多港開発の3者の共同事業で、全体面積の約半分を「みなとづくりエリア」としてコンテナターミナル整備など国際物流拠点としての港湾機能の強化を図っている。もう半分は「まちづくりエリア」として福岡の新しいまちづくり、新産業の創出を目指して整備が進んでいる。福岡市が提示する「将来をリードする先進的モデル都市づくり」が、どういう成果を生み出すか期待されている。
市民に親しまれる港づくりを目指す
現在、工事中のJR博多駅ビルからは博多湾を目にすることができる(JR九州提供)
北九州港も港湾施設や物流施設の整備だけでなく、1995年には「門司港レトロ」をオープンするなど、港の文化・観光・レジャーの交流拠点の整備にも力を入れている。門司港レトロ地区は、JR門司港駅周辺地域に残る外国貿易で栄えた時代の建造物を中心に、ホテル・商業施設などを大正レトロ調に整備した観光スポットで、毎年、200万人以上の観光客でにぎわっている。2000年度からはJR門司駅北口地区で、大里本町地区整理事業を進め、小倉と門司港の中間に位置する地理的特性を活かし、商業・文化・居住の交流拠点づくりを行っている。2002年策定の「海辺のマスタープラン2010」では、5カ所の拠点エリアと7カ所の地域密着エリアを設け、市民のさまざまなニーズに応える水際線の利用を目指している。北九州港開港120周年記念事業の基調テーマは「身近な港 楽しい海辺 再発見!」だ。
「これからは地域の人々とも連携しながら、NPOなどと一緒になってまちづくりを担っていく。門司港レトロ地区は環境や景観、歴史、大正期の建物などの財産を生かした、日本でも数少ないウォーターフロント地区の成功例。エコタウンや風力発電施設などがあるひびき地区も産業観光として注目されている。港や海辺の魅力を高め、臨海都市の基礎体力をつけていく」(北九州市空港港湾局)
「にぎわいエリア」再開発の必要性
北九州港も博多港も、これからの課題は市民生活と港の結び付きをいかに深めていくかだろう。特に博多港は経済効果は福岡市内総生産額の4分の1を上回るのに、市民にとっては「港町」としての実感に乏しい。横浜、長崎、神戸などの「港町ブランド都市」は、臨港地区と市街地とが一体化したまちづくりを進めてきたのに、北九州市と福岡市の臨港地区は市民生活から切り離された場所になっている。博多港は天神など繁華街の裏にある、という意識が強い。須崎ふ頭の東側にはベイサイドプレイス博多(博多ふ頭)という「にぎわいのあるスポット」があるが、あくまで「スポット」で終わっている。これを「エリア」にしていくには、須崎ふ頭の港湾機能をもっと東部に移し、須崎・博多ふ頭一帯を市街地とつなぐ「にぎわいのあるエリア」として再開発することも考えられる。
ましてや、経済効果は北九州市内総生産の45%に相当し、市税収入の43%を占め、市民3人に1人の雇用機会を生みだしている北九州港は、市民に親しまれる臨港・臨海都市づくりが市の発展につながることは間違いないだろう。(渋田哲也)
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※当ページの内容は、2009年7月31日発行の26号に掲載されたものです。