海と港に見る、文化的な役割と博多港の歩み
2008年10月1日発行の22号より
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新しい文化は海からやって来た。有史以前、古代、中世には、博多などを経由して日本独自の文化を形成した。江戸期の鎖国令を経て明治に再スタートし、時代は欧米へ向かう太平洋へ移る。そして、いま再び東シナ海や日本海が活況を呈し、新しい時代を迎えている。
わが国の文化は博多湾などから入ってきた
司馬遼太郎流に言うなら、わが国の「思想」はすべて海の向こうからやってきたということになるが、思想以前の生きるための技術や道具、さらに生活習慣も海の向こうからやってきた。われわれの周辺は明治以降に入ってきた西欧文化に満ち満ちている。しかし、文字、紙、宗教、学問、さらに稲作など、日本文化の基礎を築いてきたものは21世紀になっても根強く生き続けている。それらは東シナ海、日本海などを渡ってきた。その入口のひとつが博多湾だった。
福岡市博多区にある板付遺跡から、水田跡、木製鍬、石庖丁、炭化米などが発掘され、日本列島での稲作開始は弥生時代とされてきた定説よりも早い縄文時代晩期(約2400年以前)に始まったことが証明された。つまり、日本文化の基礎となる稲作が、朝鮮半島から博多湾などに入って来て、日本全土へ普及していったということができる。
大陸文化を輸入した日本最古の国際港
博多港としての起源は、わが国の古代までさかのぼる。西暦1世紀ごろ、北部九州沿岸の古代国家が朝鮮半島の楽浪郡を通じて中国と交流していたことは、中国の「漢書地理誌」に記載されている。
また「後漢書」には博多の入り海一帯を勢力範囲とする「奴」の国王が西暦57年に中国に使節を派遣し、後漢の光武帝から「漢委奴国王」の金印(1784年、福岡市東区志賀島で発掘)を受けたと記されている。
港の位置や規模は不明だが、博多の入り海がわが国の最も古い国際港であり、3世紀後半の邪馬台国以前から中国と朝貢貿易をし、その庇護を受け、大陸文化の導入を果たしていた。
国史に初めて博多を表す「那の津」の名称が登場するのは「日本書紀」で宣化元年(536年)に「官(大宰府の前身)を那の津の口に造りて」と記されている。当時、大和朝廷は朝鮮半島政策に力を入れていたので、朝鮮半島に向かう船はここに結集して賑わいをみせていた。また「続日本記」には天平3年(759年)の大宰府政庁の奏言に「博多」という名称が初めて登場する。那の津は、大宰府の発展に伴って遣隋・遣唐使や留学生、留学僧あるいは商人を乗せた出船入り船で賑わった。
福岡市・舞鶴公園内にある鴻臚館跡展示館
唐の商船が来航するようになった承和年間(834〜848年)には朝廷が直接管理し、外国商船の入港を荒津(現在の西公園下)一港に限定した。現在の福岡城跡には外国人接待用の迎賓館「筑紫館」(後に鴻臚館)が設営されていた。中国からの学問、文化、技術はすべて博多経由で日本に入って来た。
わが国で最初の中国人街も博多にあった
12世紀半ば、平清盛は博多に日本最古の人工港を修築し、「袖の湊」と名付けて 日宋貿易を積極的に推進した。日宋貿易の進展は日本の中国や朝鮮半島への進出に拍車をかけ、以後の鎌倉、南北朝、室町にわたって、宋・明・朝鮮・琉球などとの国際貿易の拠点として繁栄を極め、港湾都市・博多を形成していった。
建久6年(1195年)宋から帰国した栄西禅師は、博多に禅宗宣揚のために聖福寺を開山した。こうして、博多は、わが国の代表的な精神文化の基調となった禅宗の上陸地・開花地となった。栄西は聖福寺境内や背振山に宋から持ち帰った茶の種を撒いて育成し、全国に普及させた。うどんや饅頭が日本に入ってきたのも、このころである。
13世紀の博多は、謝国明に代表される綱首と呼ばれていた宋の貿易商人が居留地「大唐街」に多数住んでいた国際文化都市だった。謝国明は海上交通の要衝である小呂島の地頭職も兼ね、博多に承天寺を建立している。
守護大名をもしのぐ博多商人の貿易総量
かつて博多商人は博多港から東シナ海の大海原へ船出した
15世紀に入ると室町幕府は博多商人と禅僧を明に派遣し、「勘合貿易」といわれる日明貿易を開始した。勘合符は幕府のほか寺院や諸大名も携帯していたが、幕府から勘合符の委託を受けていた大内氏と細川氏は、幕府の衰亡に乗じて、対明貿易を握る。以後、大内氏は博多商人と結び、細川氏は堺商人と結んで対明貿易の実権を握った。
「それまでの博多は中央政権の窓口で、すべて中央政府の役人が取り仕切っていた。私的に東アジアとの交流を積極的に進め、地域の利益の拡大を図り、現実的にそれを実行したのが、大内氏。瀬戸内海と博多という物流拠点を領有した大内氏は莫大な利益を挙げています。大内氏の経済活動は博多を中心とした大きなエネルギーを活用した国際的規模のものでした」(作家・古川薫氏)
15世紀には本格的な博多商人が台頭する。「博多商人」として史書に明記された人物は15世紀の朝鮮の記録にある宗金で、宗金は海外貿易を認められた豪商で、朝鮮だけでなく明や琉球との取引も手がけ、その貿易量は守護大名をしのぐほどだったといわれている。
南蛮貿易で名を高めた自由都市・博多
天文12(1543)年、スペイン船が博多に入港し「南蛮貿易」が始まる。博多港はわが国の代表的貿易港として海外でもその名を高めていく。以来、数多くの博多商人たちが交易の伝統を引き継ぎ、博多は「大いなる商業都市」として西欧人に評価されて繁栄した。また16世紀の博多は、堺とならんで日本を代表する自治都市でもあった。「当時、博多の町以上に高級かつ裕福なところはなかった。というのは、市政はすべて商人から構成される制度になっていたからである」(ルイス・フロイス「日本史」)
海外交易により巨万の富を集積した自由都市博多は、当然、戦国大名にとっては「富と財宝を生む」魅力ある都市だっただけに、16世紀後半は大友、毛利、島津氏などの争奪戦に巻き込まれ、天正13(1585)年に博多の町は焼土と化し、活躍していた博多商人たちは四散した。
国際貿易港・長崎のルーツは博多商人
天正15(1587)年、九州平定を終えた豊臣秀吉は、焼土と化した博多の町を復興させる。豊臣政権下で博多商人たちの活躍は目覚ましく、ポルトガルなどとの朱印船貿易など自治都市博多最後の繁栄の時代を謳歌した。しかし寛永10(1633)年に徳川幕府の鎖国令が発布され、長崎が唯一の外国貿易港に指定されたため、博多商人の海外雄飛の夢は断たれた。こうして、国際貿易都市博多は、一地方の港湾として長い低迷の時代に入っていく。
「中国、朝鮮、南蛮との貿易で財産を築いた博多のキリシタン商人・末次興膳は、博多の町が戦火に遭うと長崎に避難して貿易を始めます。やがて幕府が海外窓口を長崎1本にすると伊藤小左衛門など博多商人も主な舞台を長崎に移します。長崎を国際貿易港に仕立てあげたのは、江戸幕府ですが、長崎の貿易資本や貿易のノウハウは博多から移って行ったものと考えてもいいでしょう」(福岡大学名誉教授・武野要子氏)
「風水」では福岡は中国や韓国に向いた都市
明治期を迎えて、博多港は再び開港するが、日本の目はすべて欧米に向けられ国際貿易港の主役は太平洋沿岸の横浜や神戸に移っていた。福岡市は1961年に全国に先駆けて「福岡市総合計画」を策定し、博多港も国際貿易港として産業基盤の確立を目指すが、当時の外国貿易実績は22万トン程度で、ライバルの門司港の9分の1の規模にすぎなかった。
その後、成長著しい東アジアに目を向けた福岡市は1989年に「アジア太平洋博覧会」を開催した。その目論見は見事に当たり1990年代後半から、中国に代表される東アジア経済は大ブレークする。2007年の博多港の外国貿易実績(輸出入)は1457万トンと、45年前の66倍の規模に発展した。そのうち対中国の輸出入総量は全体の57%を占めている。
その最大の交易相手の中国の「風水」で博多港を見るとどうなるのか。風水とは3世紀ごろから中国文化圏に伝わる地相占いのことで、今でも新しい家を建てるときや、新しい事業を起こすときなどに実践されている。風水のあり方で中国人の福岡への好感度も違ってくる。風水に詳しい作家の荒俣宏氏が著わした『風水先生―地相占術の驚異』(集英社刊)を要約すると、次のようになる。
〈博多の街は風水用語でいう巽坐乾向に位置し、北西にある韓国や中国に向いた都市だ。昔、中国や朝鮮へのルートが開かれたのも風水的には正しい。生活のエネルギーの溜まり場であるポイント「案山」は能古島。都市の風格や気品をもたらす「朝山」は志賀島。福岡ドームは、ホークス=鷹=朱雀だから南の方向のエネルギーが強まる。つまり遠くからやってくる客のエネルギー(財気)を集める。さらに大きな財力をたくわえるためには、ドームの北にある池、つまり博多湾を活用すべきだ。博多湾をどう利用するかで福岡の将来が決まる〉(渋田哲也)
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※当ページの内容は、2008年10月1日発行の22号に掲載されたものです。